白髪の王子様の好奇心 66 放屁論

放屁論
日本のダビンチと言われた平賀源内は御存じのように発明家であり医者であり地質学者、蘭学者、実業家、画家、俳人、作家等と名刺に書ききれない程の知識を身に付けた江戸時代の天才であります。
その源内が書いた本の一つに表題の(放屁論)があります。つまり、おならの論文であります。
源内はその論文の中で、おならの音に三等有りと言っております。
1・ブッと鳴るもの上品にして其形円く
2・ブウと鳴るもの中品にて其形いびつなり
3・スーとすかすもの下品にして細長くして少しひらたし
どうです?世のご主人方、あなたのブッは上品であり奥様のスーは下品だと源内先生はおっしゃっているのです。感動して思わず涙がこぼれそうです。
平賀源内がこの放屁論を書くきっかけとなったのは江戸の両国橋近くの見世物小屋で当時有名となった放屁男を見物したのがきっかけだそうです。
前後左右にお尻を振りながら、犬の遠吠えや鶏、さらにはメロディーを奏でたというから大したものであります。
源内も(トッパ ヒョロヒョロ ピッ ピッ ピッ)と拍子良くオナラをかなでると感心し、放屁論に次のように書いております。
あの(ヘッピリ男)なるは万人に見捨てられてきた屁を粗末にせず、それをもってして工夫、修行の限りをつくし、見事大衆の眼前にて披露し金を稼ぐという偉業を成し遂げたのである。と絶賛しているのであります。更に屁道の奥義を極めた立派な芸であるとも。
源内はこの放屁論を書いた2年後には6年程研究してきたエレキテルを完成しています。やっぱり彼は天才であります。
若しかしたら彼の血液型はB型かも知れません。
ヘッピリ男の話は真実であり、由緒ある本にも書かれております。(ヘッピリ腰)という言葉も彼から生まれたそうです。
こんなたわいもない芸が江戸中の評判となったのには其れなりの理由が有ったと私は思います。
この芸が大評判に成ったのが1774年で、その前年には江戸を含めた全国各地で天然痘が猛威をふるい、死人で溢れかえっているとの情報から江戸町奉行が棺屋を呼び出してその数を申告させたところ19万もの棺が出たとのこと。棺が買えない貧しい人を加えればその何倍もの人が天然痘で亡くなったと言われています。
更にその前年には江戸の大火で死者、行方不明合わせて2万人を超える明暦の大火以来の大参事があったばかりなのです。このような大きな災難続きで塞ぎ込んでいた江戸の庶民は喉から手が出る程明るく楽しい話題がほしかったのだと思います。
そんな庶民の前にあのヘッピリ男が現れたのです。小銭で見物できるアホらしい芸を家族や仲間と見て久し振りに腹から笑ったことでしょう。
平賀源内はヘッピリ男に感動したと言っていますが、本心は久し振りに見た庶民の笑顔に感動してその男を援護するつもりであの放屁論を書いたのでしょう。そうでないと人格を疑われるような本をわざと出版する筈がありません。
話しを現実に戻しますと、私は体が冷えるとお腹にガスが溜まります。けっこう痛くてつらいものです。その原因は食べ物を飲み込む時に空気も一緒に飲み込んでいてそれがガスに成るらしいのです。そんなこと言われたって食べた物を真空パックにして飲み込むなんてことは私にはできません。
せめて品よく(ブッ)と放出したいと思います。いつものように。