白髪の王子様の好奇心 76 家系図

家系図
織田信長は戦国時代において最も有名で最も奇知に溢れ最も恐れられた武将ですが、最も謎に満ちた武将でもあります。
この信長をテレビで取り上げると必ず高視聴率となることからNHKを含め民放各局で手を替え品を変えて放映されてきました。
そのお蔭で皆様の記憶の中には織田信長に関する多くの知識が蓄積されていて、信長ファンの方も大勢いるものと思われます。
私も信長のファンでありますが、野球で言えば応援チームのユニホームを着るとか鳴り物入りに混じって声援を送る程の熱烈なファンではありません。柱の陰から首だけ出して応援する隠れファンであります。
フィギアスケートの織田信成選手がその信長の子孫であるらしいとの噂は前から聴いておりましたが、ふと信長にはどのような子供達がいたのだろうかと、それが知りたくなって織田家の門を叩くことにしました。予約なしの突然の訪問でしたが、安土城の門番に白髪の王子であることを告げると信長が笑顔で出迎えてくれました。
案内された天守閣から琵琶湖を眺めながらそれとなく御子息について尋ねたところ、何と11人もいらっしゃることが判りました。しかも女子を含めると24人の子持ちとか、少子化担当大臣が聞いたら涙を流して喜ぶよな子沢山だったのであります。
信長に向かって『お主もなかなかやりますね』と言ったら頭を掻いてテレ笑いをしておりました。
そろそろポルトガルからの来客が有るとのことで歓待の礼を述べて我が城に戻りましたが、残念ながらその後,ご存知のように安土城は焼け落ちてしまいました。
そこで信長から知らされた御子息と、その後の経緯について粗末な資料から調べましたので簡単に述べさせて頂くことにします。
長男の信忠と五男の勝長は信長と共に本能寺の変で死亡、三男の信孝は秀吉によって切腹させられ、四男の秀勝と六男の信秀と十男の信好は病弱で死亡、八男の信吉と九男の信貞と十一男の長次は関ヶ原の合戦で西軍に付き戦死あるいは改易され剃髪、次男の信雄と七男の信高と九男の信貞の子孫が生き延び、明治まで徳川幕府の旗本として仕えたそうです。
フィギアスケートの織田信成選手は七男信高の子孫と言われております。
めちゃくちゃ端折りましたが間違っていたら御免なさい。それにしても信長の子供は24人もいたのですから信成選手以外にも信長の血を受け継いでいる人は軽く千人を超えるのではないでしょうか。
長男の信忠と次男の信雄は側室の吉乃から生まれています。正室濃姫は子を産んだのか、何時まで生きたのかも謎であります。様々な資料から様々な意見が述べられていますが、当時の権力者や当主は都合によっていかようにも先祖や家族の事実を替えることが出来ましたので一つの資料だけでは信用できないのも事実であります。
何年か前に昭和天皇は双子であったことが話題になりました。当時双子は縁起が悪いとして隠されてきたのです。
このように皇族でさえ系図の信ぴょう性が問われるのですから私達の系図などは5〜6代もさかのぼれば殆んど怪しいものと思っていいでしょう。なにせ信頼できる戸籍法が出来たのは明治4年ですから。
色々他人の系図にいちゃもんを付ける人がいますが、言ってる本人の系図も如何わしいと知るべきかも知れません。
その点私、白髪の王子の系図には一点の曇りも有りません。なにしろ神の意志によってこの世に生まれた王国ですから先祖も子孫も有りません。しいて私をこの世に送った先祖を問われれば、天照大御神の近所に住んでいた冗談の好きな神様であったと思われます。