白髪の王子様の好奇心 53 八十八手じゃ足りません

八十八手じゃ足りません
台風11号が去った翌日、用水脇の農道を歩いていると、いかつい顔のお爺ちゃんが田んぼから上がって来ました。
そして偶然目と目が合ったことから今日のドラマは始まったのであります。
『昨日は風がだいぶ強かったようですが被害は有りませんでしたか?』
私の問い掛けに、うんと言ったのか、すんと言ったのか、それとも無視したのかと戸惑っていると
『散歩にはいいとこだろ』と逆に問い掛けてきた。
『お陰様で毎日稲の成長を見て楽しませて頂いてます』
『俺もこうして毎日見て回ってるんだよ、ほっといたら可哀そうだからな』
『声も掛けてやるんですか?』
『・・・稲の様子を見れば元気かどうか直ぐに分かる』
稲に声を掛けるのかと聞いたとき、いかつい顔の口元がちょっと緩み、頷いたような気がしたが何と声を掛けているのかは言ってくれなかった。しかし何となく想像は出来る。『おい元気か』『しっかり育てよ』『強い風にも負けずに偉いねお前達は』等と私には見せない優しい笑顔で話しかけているに違いない。ちょっと間をおいて、お爺ちゃんがボソッと話し始めた。
『最近はどの農家も勉強したようで、風で稲が倒れることが少なくなった』
初めて目と目が合って挨拶代わりに言った私の言葉をお爺ちゃんはちゃんと覚えていてくれたのです。
『あれは肥料のやり方で防げる』
言われてみれば5〜6年前迄は風の通り道と思われる一帯がローラーで踏み潰したように倒れていたりUFOの仕業かとも思われる大きな渦巻状に倒れていたのをよく見かけたものだが最近はお爺ちゃんの言う通り見かけなくなった。風よけを作るのではなく肥料によって風に強いしなやかな稲を育てているとは初耳であった。
『稲には花は咲かないんですか?』都会育ちで全く稲について無知な私の質問に
『もう咲いたよ』と、ちょっと冷たい返事が返ってきた。私も負けずに『毎日この道を歩いていたけど気が付かなかったな〜〜』と、不満げに稲を見渡す。
お爺ちゃんは黙って畦道を5〜6歩進んでしゃがみ込んだ。そして『これが花だ』と、指を差す。指先をようく見ると、小ぶりな稲穂に黄粉をまぶした様な小さな小さな花が咲いている。
どうりで歩きながらポケ〜〜ッと見渡していては気が付かない筈である。
稲は風の力や自家受粉なので蟻の頭も入らないような小さな花で充分なのだそうです。
稲は昔から省エネなんですね。北島三郎さんも、無駄な空気を吸い込まないように、もう少し鼻の穴をつぼめてもいいと思うのですが・・・・。
『この用水は何処から引いているんですか?』白髪の親父が子供のように、あれな〜に〜、これな〜に〜との問いに対して相変わらずいかつい顔だがちゃんと答えてくれる。人は見かけによらないとは確かである。
『これは名栗川の水をトンネルを掘って宮沢湖に溜めて、そこから用水を通して入間川の何とか堰に入り、何とか川を通り、何とかを通ってここまで来ている』しっかり聞いたつもりだが家に帰って思い出すと何とかばかりで、丁寧に教えてくれたお爺ちゃんに申し訳ない有様です。
そこで地図を見てみると確かに宮沢湖からお爺ちゃんの田んぼの前まで『入間第二用水路』が記されています。これで途中の何とかの何とかも解明できたのですが名栗川からトンネルを掘って宮沢湖に溜めているという言葉が気に成り、宮沢湖に直接電話して尋ねたところ、釣り場の責任者が応対してくれました。間違いなく、名栗川からトンネルを掘って宮沢湖に溜めて、そこから川越の方まで用水で流していると答えてくれたのです。
お爺ちゃんとの別れ際『手を止めてすみませんでした』と、お礼を言ったところ『いや、今は見て回ってるだけだ』との優しい言葉、しかし最後まで白い歯は見せてくれませんでした。もしかしたら歯が無かったのかも知れません。
お爺ちゃんからは他にも色々教えてもらいました。苗を植えてから刈り取るまで、今では全てが温度管理だそうです。用水の水を田んぼに引き込む時も温度によって朝早くだったり夜だったりと調節し、時には逆に田の水を出して土を乾燥させたりと八十八手ではとても足りないぐらいに働いています。
稲穂が出てから何日位で刈り取るかは、おおよそ決まっているそうですが、それも稲穂が出てからの毎日の温度を積算して何百度になったら刈り取るという方法が重視されているとのことです。
少し離れた田の稲の色が違うのは別の種類の稲で収穫時期も育て方も違うこと、今年はいい米が取れそうだが、値段が安いこと等、尻切れトンボのような会話も慣れてくると素朴で親しみを感じるから不思議である。ちょっとした立ち話のお蔭でとても楽しい思い出が出来ました。これは私にとっては記憶に残るドラマであります。
人工的風景には、それを守り育ててきた人の素朴な会話を加えることによって、より美しく、爽やかな感動を味わえることを知りました。
これからの散歩が益々楽しみになって来ました。