白髪の王子様の好奇心 7 ほうれん荘

ほうれん荘
15年程前営業で訪れたアパートの入口に『ほうれん荘』と書かれた看板
を見付けて嬉しくなったことを思い出す。
今日通り掛かった新しいアパート名が何語でどんな意味なのかもさっぱり
分からないカタカナだったからかも知れない。業者は気取ったつもりでも
正直私の心をよぎった言葉は『味気ない』の一言である。
『ほうれん荘』は当時既に築40年は経っていると思われるボロアパート
(失礼)であった。このネーミングを決定する迄には家族からはかなりの
ブーイングがあったに違いない。
『あなた ほうれん荘は止めてくださいな 恥ずかしい それなら月見荘
とか雪割荘とかもっと素敵な名があるじゃないですか』
『月見草も雪割草も食えんだろ、このアパートは俺達が年老いて畑仕事が
出来なくなった時の食い扶持を稼ぐためのものだ、ほうれん草は栄養満
点だしピッタシじゃないか』
『そんな名前を付けたらポパイぐらいしか借りにきませんよ、それにポパ
イは日本には住んでないし・・・』
もしかしたら息子さんとは次のような会話があったかも知れない。
『親父 格好悪いよ、ほうれん荘なんて駄洒落じゃん』
『我が家の本業は農業だ、働かないで収入を得るアパート経営はあくまで
も保険のようなもんだ、お前までがこんなもんに頼って農業をおろそかに
したら必ずや破滅するぞ、ほうれん荘は俺の趣味であり駄洒落だと思って
お前は気にすんな』
勝手な想像からだんだん妄想に発展してきたようだがこんな楽しい妄想は
初めてである。
この『ほうれん荘』は東京オリンピック前後に新築されたものであろう
当時は未だ駄洒落文化も親父ギャグ文化も未熟だった働き蜂全盛の時代
であった。そんな時代に『もっと心にゆとりを持ったらどうだね』と
問い掛けた勇気有るデモンストレーションにも取れるのである。
家族、親戚、そして近隣からの失笑や悪態にもめげず自分の意思を貫いた
ほうれん荘の大家さんに乾杯である。