白髪の王子様の好奇心 41 時には優雅に

時には優雅に
『花の色は 移りにけりな いたずらに 我が身世にふる まがめせしまに』
平安期の歌人小野小町の歌であります。私が知っている唯一の和歌でもあります。
この小野小町は大変な美人だったようです。それが語り継がれて、その後評判の美しい娘を『〜小町』と呼ぶようになり、日本中に広まったようです。
そんな小町もやっぱり年はとります。目尻の小皺を気にしながら、蝶よ花よと騒がれた頃を懐かしく思い返しながら歌った和歌のように思うのですが、当時の女性は今のアイドルと同じで、20歳に成ったら、もうおばちゃまです。子供の2〜3人生んでいてもおかしくない時代なのです。
若しかしたら、あの有名な和歌は二十歳前後に歌われたものなのかも知れないのです。
本当に花の命は短いですね、私のつぶらな瞳からこぼれた涙がほほを濡らします。
解説によりますと、『我が身世にふる』のふるは経ると降るを掛けており、『ながめせしまに』のながめは、眺めと長雨を掛詞(かけことば)とした洒落た歌なのだそうです。
外見的魅力が衰えても知的魅力で男の心を引き付けたんでしょうね。『ヤル〜〜』
貴族の間で広まった和歌には雅な言葉を使わなくてはいけないという制約が有ったようです。
うっかり言ってしまった私の『ヤル〜』も却下ですね。
当然今はやりの『やっぱ〜』とか『うっそ〜』も駄目だと思います。
明治維新の文明開化の時代を迎えると、そんな制約を取り払って自由な表現が出来るようにしたのが短歌だそうです。しかし5・7・5・7・7・の31文字を使うことは継承したようです。
そんな短歌の普及に先導的な活動をした与謝野鉄幹と結婚した与謝野晶子の短歌にこんな歌があります。
『やわ肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君』
こんな歌を詠まれたら、私がその時の道を説く坊さんでしたら袈裟を蹴飛ばしてでも彼女に飛びついていたのではないかと思いますね。
この情熱そのままに与謝野晶子は11人の子供を産んだそうで、頭が下がります。
今日、5月23日は語呂合わせで『恋文』の日だそうです。
昔は自分の思いを和歌に託して恋人とやりとりしていました。
めったに手紙など書いたことのない若者達も、こんな日ぐらいは街でナンパするのも優雅に短歌でやりとりしてはどうでしょうか。
『彼女達 僕らと一緒に遊ぼうぜ あっちぶらぶら こっちぶらぶら』こんな歌をピンクの色紙に書いて渡すのです。
その返歌が『私達 イケ面だけが 相手なの 消えて頂戴 あっちへぶらぶら』とブルーの色紙に書かれていたら潔く諦めるのがナンパの礼儀であります。